雪解け

 不意に目が覚めた。下を見ると鴨が二羽、水面に顔を突っ込んで餌を探しながら川を流れていった。彼らは確か真冬のマディソン・スクエアでずっと氷漬けになっていたはずなのだが。何かそこに深い意味を見出した訳ではないが、覚えているのはいつもそんなものだと誰かが言っていた、私もそう思う。

 卒業式を控えた後輩に連れられて、大学の寮に初めてお邪魔した。みんなが明日の準備をしていた。気が引けると言ったのだが、かまわないとのことだったので仮装用の衣装にメッセージを書いた。あとは談話室でずっと漫画を読んでいて、そのまま炬燵で寝た。

 夢を見ていた、数回会ったことがあるだけの人物が、夢の中では重要な役割を果たすことが往々にしてある。彼女は私に愛とは何かと聞いた。私は無言で歩いていた。少しの罪悪感。走り出そうとしたら身体が重くて、夢だとわかった。

蟀谷

 たぶん最後の更新になる。そう言って最後になったことなんてほとんどないのだが、少なくともしばらくは何も書く気が起こらないだろう。

 waisの結果が出たけれど、いたって普通で、これでどうと言えることはないでしょうとのことだった。貰った紙には「検査を最後まで終えることができたのだから、日常生活でも物事をやり遂げる能力があるでしょう」と書いてあった。やり遂げるとは、何をだろうか?今にもこのブログを投げ出そうとしている。それに、生活には終わりがない。

 ハプワース16、一九二四の手紙の中でシーモア・グラースは「僕は手入れのいい電柱くらいの間は生きているつもりなんだ」と言っていた。「それまでこの憂鬱とはユーモアを持って休戦協定を結ぶつもりなんだ」とも。結局のところ彼は31歳で蟀谷を撃ち抜くことになるのだが。

 天性の美文家というものが存在する。きっとその生涯において一片の小説もしたためることのないような、感受性の高さ故に多くの言葉を必要としない人たち。その比類なき美しさは時折、送られてくる何気ない手紙の中に表れたりする。世界の姿を必要最小限の言葉で切り取った、それでいてそれ以上の言葉はもう必要なくて、それで全部なんだという説得力を持った手紙。そんな手紙を読んでいると私はドキドキしてしまう。自分だけがその美しさに気づいてしまったような陶酔と、秘密を共有してしまったような罪の意識。彼らの仕事はもはや文を綴るということにはなくて、ただ世界を見ることだ。そして彼らのことを書くのは私たちの仕事かもしれない。ここを愛そう。

死ぬのはいつも他人ばかり

 今朝ちゃんと薬を飲んだのかどうか記憶が定かではない。11月祭に行こうかなとぼんやり考えていたが、結局のところ昼過ぎからビールを飲んでいたら一日が終わった。飲んでいる最中で最悪の気分になってきたのでツイッターのアカウントを消した。たまに消すとさっぱりとした気分になるのだが、実は岩盤浴に行った方がさっぱりした気分になれるということをそっと電話口で教えてもらった。

 ライブの前は違う人の曲を聞いていることが多い。桜通線に乗りながらStereo fabrication of youthシリウスを聞いていた。名古屋に恋人がいた頃はいつも桜通線に乗っていたので、その時に歌ってあげたらどんな感じだっただろうか。もっとも地下鉄は私がいくら急かしても飛ばしてくれないのであるが。

 今池ボトムラインは人がいっぱいで、というより会場が少し狭かったのだが、並ぶのが面倒だったのでぶらぶらしていたら少し柱が邪魔な位置になってしまった。僕の場所からはちょうどベースの金やんと重なってしまった柱の向こうを想像してみる。田中和将は最近よく想像力という言葉に言及している。ともすれば難解とも言われる彼の詞を楽しむためには聞き手側が想像力を持つことが重要だ、とか。あるいは能動性を持って楽しんでくださいということもよく言っている。能動性と言っても実際には「揺れるなり、歌うなり、眠るなり自由にしていてね」と言う。どれも観客の自由な選択だ。僕らは作品に対して、その制作と同じように想像力を持って能動的に消費することができる、というのが最近考えていることだった。

 マルセル・デュシャンの遺作はフィラデルフィアから動かないらしい、それは観客が扉に空いた小さな穴を覗き込むことによって完成する。ここにもまた想像力と能動性が表れてくる。いい芸術家というのはそれらを発揮させるのがうまいのかもしれない。私はただ文字の並びとしてしか聞いたことのないフィラデルフィアの景色を想像してみる。

風景とリズム

 ぼんやりと窓の外を眺めていたけれど、思うところが何もなかった。風景の才能がない。例えば夜道の街灯に何かを見出すようなことは、よほどうまくやらない限りそれ自体の凡庸さを免れ得ない。極端な話をすれば、トンネルを抜けた先が雪国じゃなくても別にいいじゃないかと思う。

 文章においてリズムをどうとるかというのは、思想の深い部分に対応していると思う。句読点の打ち方が自分でもわからなくなるような文章を書いているとき、私は最悪の気分だ。ジョン・アーヴィング(あるいは翻訳の筒井正明氏)のリズムが好きだ。そういえば小さい頃は、車の外を等間隔で流れて行く電柱が好きだった。

10/25

 2週間前からストラテラを飲み始めたのだが、あえなく鉄柱に激突し、顎をやられた。頭が変な感じだ。

 夕方の話。高島屋の横の喫煙所で煙草を吸っていたら老人に話しかけられた。かなり酔っている様子で、自転車を何処に停めたのか思い出せないらしい。俺にも一本くれと言うので渡すと、手に百円玉を握らされた。老人と言っても両親より一回り上くらいなのでそれほど老いているという感じではなかったが、まあどちらかといえば老人だろう、言ってしまえば両親もそろそろ老人なのだ。長崎の生まれで、20歳の時に船で岐阜に来たのだとしきりに言っていた、私は客船が長良川を遡って岐阜までやってくる様子をなんとなく想像してみた。実際のところ名古屋からは電車で来たというようなことを言っていた。ほら俺は中卒じゃん?みたいなことを何度か言われたが、知らない。なぜならば知らない人だからだ。老人はあと家に泊めたホームレスの話と、東京六大学野球の話をしていた。六大学野球に関しては加盟している大学の名前を思い出せるくらいだ、明治大学を思い出すのに手間取った。長嶋茂雄立教大学王貞治早稲田実業高校。私は教養について少し考えた。ホームレスが毎日何処からか酒を持って帰ってくる話がおもしろかった。

 そのあと煙草をもう一本くれと言われたので渡すと、今度は五十円玉をポケットにねじ込んできて、さっきと同じ話をもう2回くらいして帰っていった。私はローソンでLチキを買った、辛いやつ。160円だった。

退屈に関する考察

 枠を目掛けて石を投げこんでみる。枠の中には何本かの線が置かれていて、その内部を幾つかの部屋に分け、格子模様を作り出している。さらにその中の幾つかの部屋では既に投げた石が場所を取っている。投げた石は枠の中の新しい場所に落ちたり、あらぬ方向に飛んで枠の外へと消えて行ったり、あるいは元あった石とぶつかってそれを弾き出したり、あるいは弾き出されたりしている。見たところある程度の部分はもう埋まっている様だ。空いている部分に狙いを定めて石を投げたが、軌道は少し逸れ、隣の石とぶつかって、思っていたのとは違うところに落ちた。石を投げる、という動作が一定の時間ごとに繰り返されるものだとしたら、残りの空白が少なくなるに連れて次の空白を埋めるまでに必要な石の数、そして所要時間は飛躍的に増大して行くだろう。空白が多い間はどこに投げても石は概ねどこかに場所を占めることができたが、今となってはじっと狙いを定めても枠の中に収まることは殆どなくなった。わざと他の石を狙って投げてみたり、空白に気づかないフリをして出鱈目な方向に投げてみたりもしてみたが、結局のところ大した違いはないのだろう。

symmetry / fractale

 コクトー・ツインズを聞きながら、ポール・オースターを読んでいたら朝になっていた。これは嘘で、今は昼間もいいところだ。オースターも本当はほとんど開きっぱなしのままで、幾頁も進んでいない。どうやら疲れているみたいだ、いつもこうなってから疲れに気づく。それでも目を凝らして文字を追っていると、なんとなく地上的なイメージが浮かび上がってくる。ニュー・ヨークの地下鉄。それから真っ白な水面に落ちる水滴と、広がっていく銀の波紋。こっちは多分耳から入ってくるイメージだ、或いは半分くらい夢を見ている。

 

 機はもう熟さないのかもしれない

 

 小説を書こうとして、やめた。断片的な映像と言葉だけが頭の中で無限の膨らみを持ち始める。もう一度耳を澄ますと、Heaven or Las Vegasの最後、Frou-frou Foxes In Midsummer Firesのメロディが流れている。なんてことはない、さっきの地上のイメージは、ここからの対比として思い浮かんだだけだった。二つの反対のイメージはそれでいて不思議と衝突することもなく、朦朧とした頭の中で自然に並行していく。

 

 機はもう熟してしまったのかもしれない