死ぬのはいつも他人ばかり

 今朝ちゃんと薬を飲んだのかどうか記憶が定かではない。11月祭に行こうかなとぼんやり考えていたが、結局のところ昼過ぎからビールを飲んでいたら一日が終わった。飲んでいる最中で最悪の気分になってきたのでツイッターのアカウントを消した。たまに消すとさっぱりとした気分になるのだが、実は岩盤浴に行った方がさっぱりした気分になれるということをそっと電話口で教えてもらった。

 ライブの前は違う人の曲を聞いていることが多い。桜通線に乗りながらStereo fabrication of youthシリウスを聞いていた。名古屋に恋人がいた頃はいつも桜通線に乗っていたので、その時に歌ってあげたらどんな感じだっただろうか。もっとも地下鉄は私がいくら急かしても飛ばしてくれないのであるが。

 今池ボトムラインは人がいっぱいで、というより会場が少し狭かったのだが、並ぶのが面倒だったのでぶらぶらしていたら少し柱が邪魔な位置になってしまった。僕の場所からはちょうどベースの金やんと重なってしまった柱の向こうを想像してみる。田中和将は最近よく想像力という言葉に言及している。ともすれば難解とも言われる彼の詞を楽しむためには聞き手側が想像力を持つことが重要だ、とか。あるいは能動性を持って楽しんでくださいということもよく言っている。能動性と言っても実際には「揺れるなり、歌うなり、眠るなり自由にしていてね」と言う。どれも観客の自由な選択だ。僕らは作品に対して、その制作と同じように想像力を持って能動的に消費することができる、というのが最近考えていることだった。

 マルセル・デュシャンの遺作はフィラデルフィアから動かないらしい、それは観客が扉に空いた小さな穴を覗き込むことによって完成する。ここにもまた想像力と能動性が表れてくる。いい芸術家というのはそれらを発揮させるのがうまいのかもしれない。私はただ文字の並びとしてしか聞いたことのないフィラデルフィアの景色を想像してみる。