蟀谷

 たぶん最後の更新になる。そう言って最後になったことなんてほとんどないのだが、少なくともしばらくは何も書く気が起こらないだろう。

 waisの結果が出たけれど、いたって普通で、これでどうと言えることはないでしょうとのことだった。貰った紙には「検査を最後まで終えることができたのだから、日常生活でも物事をやり遂げる能力があるでしょう」と書いてあった。やり遂げるとは、何をだろうか?今にもこのブログを投げ出そうとしている。それに、生活には終わりがない。

 ハプワース16、一九二四の手紙の中でシーモア・グラースは「僕は手入れのいい電柱くらいの間は生きているつもりなんだ」と言っていた。「それまでこの憂鬱とはユーモアを持って休戦協定を結ぶつもりなんだ」とも。結局のところ彼は31歳で蟀谷を撃ち抜くことになるのだが。

 天性の美文家というものが存在する。きっとその生涯において一片の小説もしたためることのないような、感受性の高さ故に多くの言葉を必要としない人たち。その比類なき美しさは時折、送られてくる何気ない手紙の中に表れたりする。世界の姿を必要最小限の言葉で切り取った、それでいてそれ以上の言葉はもう必要なくて、それで全部なんだという説得力を持った手紙。そんな手紙を読んでいると私はドキドキしてしまう。自分だけがその美しさに気づいてしまったような陶酔と、秘密を共有してしまったような罪の意識。彼らの仕事はもはや文を綴るということにはなくて、ただ世界を見ることだ。そして彼らのことを書くのは私たちの仕事かもしれない。ここを愛そう。